おそらく多くの人は、石井数俊をYoutubeで知って何者か?と思っているでしょう。
そこで、私が常々思っていたこととこれまでの経験をこのページで紹介したいと思います。
私は40代でクモ膜下出血、脳幹出血を起こしていわゆる死後の世界を体験しました。
2016年の脳幹出血では普通だったらそまま肉体死なのですが、複合要素によってこの世に戻ってきました。
さらに2024年12月にも全国行脚の疲労蓄積により九州にて倒れ、3回目の異世界旅行をしてきました。
今の地球では多くの人間が肉体死を恐れすぎるあまりに、お金のためやりたくもないことを強いて肉体で生存しています。
近年このような世界になったのは、マスコミを通じて人々を洗脳してきた結果でしかありません。
数百年前まで、人間は肉体死を怖れてはいなかったのです。
過去に囚われず、未来に不安を感じずに「今」を生きることができれば、人間はもっと素晴らしい毎日を幸せに過ごせるのです。
幼少期から高校卒業まで
私は静岡県浜松市で生まれましたが、物心がついた頃から、自分がこの「肉体」という物質に閉じ込められて過ごす時間を、どこか不快に感じていました。
その理由は、この世界に生まれる前や就寝中には肉体から解放され、地上の物理法則に縛られない、本来の自由な姿で活動しているという感覚を持っていたからです。
そんな地上の肉体世界で、唯一その束縛を忘れられる存在が「音楽」で、非物質世界の「美」や「喜び」を、楽器やオーディオ機器といった物質を通じて表現するものだと、幼い私には感じられたのです。
そこで、4歳の時に親がピアノ教室に通わせてくれましたが、すぐに辞めてしまいました。
私は人から何かを教わることを極端に嫌う性格だったため、塾や習い事とも縁がなかったのです。
学歴に対して意味も感じられずに最終学歴は地元浜松の県立高校で終わりました。
中学・高校時代の私にとって、最大の謎がありました。
「感性が最も豊かで、多くを吸収できるこの時期に、なぜ皆は受験勉強という無意味なことに耐えられるのだろう?」
この物質世界は私にとって謎に満ちており、溢れる若いエネルギーをぶつける対象を見つけられないまま、度々心が荒れていました。
とはいえ、暴走族に入るなどの非行や大人社会へのあからさまな反抗には興味を感じませんでした。
その代わり、破壊的な衝動を抑えるために、あれこれ肉体を酷使するような方法で発散することもあれば、部屋に籠って思索にふけることもありました。
また、ヘビーメタルに合わせて長時間ギターを弾くことで、自分の内なるエネルギーを表現していたのです。
青年期は思ったこと、仕事を転々とした時期
高校を卒業する頃には、私は次のような疑問に囚われていました。
「なぜ物質世界に生まれてきたのか?」
「生死の本質をなぜ誰も知らないのか?」
「闇がこれほど優勢な社会で、この物質世界に生き続ける意味は本当にあるのか?」
こうした疑問を解消すること以外、ほとんど興味を持てない状態だったのです。
そのため、歴史や宗教、哲学、心理学、そして先端科学など、幅広い分野の情報を貪るように学びました。
同時に、社会の仕組みや現実を理解するには、机上の学びだけでなく、実際の社会経験が必要だと考えるようになりました。
それも物事の中心である首都で経験を積むべきだと感じ、あてもなく上京することを決めたのです。
上京後は、深夜の清掃員や工場勤務をはじめ、営業職など、対人スキルを鍛えるための仕事にも挑戦しました。
その結果、30歳になる頃には、我ながら呆れるほどの転職回数を重ねていました。
多くが契約社員や派遣、アルバイトといった非正規雇用でしたが、金銭的な報酬以上に、さまざまな経験から得たものは大きなものでした。
30代、経営コンサルタントになって
30代の頃に偶然、経営コンサルタント業を手掛ける小さな会社に就職しました。
そこで、多くの中小零細企業の内情を知る中で気づいたのは、ビジネスにおいて「意識の持ち方」が業績に大きく影響するという事実です。
一定以上の規模の組織では、「出世競争」が明確なモチベーションとなり、金銭や名誉を目標に仕事へ前向きに取り組むことができます。
しかし、中小零細企業の場合は事情が異なります。「今の暮らしに納得していない」「仕方なく働いている」などの意識で取り組む仕事では、最低限の成果しか上げられないことが多いのです。
一方で、相手の意識の在り方を変えるきっかけを提供できれば、業界や会社の詳細に精通していなくても、個人レベルでの変化を通じて業績に影響を与えることが可能だと気づきました。
実際、長年社長が従業員に伝え続けても響かなかった内容が、全く別の視点からアプローチすることで短期間に伝わり、従業員が変わり始めるケースを多く目の当たりにしました。
その変化を見た社長や同僚、顧客、さらには当人自身が喜ぶ姿を見届ける中で、私自身も大きな喜びと達成感を得てきました。それが次の挑戦への情熱やモチベーションへとつながっていったのです。
しばらくこの会社で仕事に励んでいましたが、浜松の事務所を畳むことになりました。
それに伴って、本社に異動するよう命じられましたが、これを拒否して退職することとなります。
顧客に挨拶に行った際に、「石井さんが続けるのなら引き続きお願いしたい」という声を何社か頂きました。
ちょうど、会社法が改正されて株式会社の設立が容易になったため、自分で会社を作って独立することになります。
会社を興して数年はイヤイヤながらもお金儲けをしてきましたが、やっぱりお金が入ってきても虚しくなり、自分が本当にやりたい文化的なことに傾倒していくことになります。